大学2年生。パソコン通信時代、学校の課題で初めてウェブサイトを制作する。
大学の授業で初めてインターネットに触れる
今ではブラウザといえば「GoogleChrome」や「Safari」などを使うが、当時は「Mosic」一択だった。プログラム言語の授業の最初の内容はこんなふうだった。

- モザイクの起動方法を覚えよ
- ネットワーク探索を体験せよ
- 興味ある分野を探索してみよ
- 自分用のホットリストを作成せよ
ネットで検索といっても、世界中のwwwサーバーには情報がなかった。「marble」と検索しても、日本語での検索結果は3件程度だったのを覚えている。
初めてメールの送受信をする
1994年頃は「メール」という言葉も一般的ではなかった。そんな時代に、フロッピーディスクに入ったメールソフト「Eudora」をMacにインストールし、メールの送受信設定をして、同部屋にいる同級生にメールを送受信するという授業があった。離れている人に文字データが送れることに感動した。

- 電子メールの送受信とパスワードの変更
- wwwサーバーを渡り歩く
- wwwサーバーのレポートを書く
- 商用パソコン通信ネットワーク(Nifty-Serve)への加入
- Nifty上でのメール送受信と電子会議室レポート
- Nifty上の電子会議室への書き込み
- wwwサーバー用のページ作成(個人またはグループ)
- ネットワークの仕組みを理解する
- 簡単なUnixコマンドを覚える
- 電子メールによる受検登録と受検
Nifty-Serveへの加入、会議室への書き込み

- 商用パソコン通信ネットワーク(Nifty-Serve)への加入
- Nifty上でのメール送受信と電子会議室レポート
- Nifty上の電子会議室への書き込み
インターネットとの接続も考慮して、28000bps異常のスピードに対応しているものを購入するとよい(約30000円)
(サン電子のモデムなど)
購入後、自宅からオンラインサインアップ
今思うと、大学の先生が学生にモデムを購入させ、さらにはNiftyに加入させようとするのはどうなのかと思ったりもする。当時は、奨学金を毎月54,000円借りていて、仕送りもない貧乏学生だったので、3万円のモデムを買うのはかなり勇気のいることだった。(先生が勧めるとおり、買ったのだった)
この数年後に、仕事でNiftyのフォーラムシスオペを務めることになったので、あのとき思い切ってモデムを買ってよかった。
HyperTalkプログラミング

授業でHyperCardのスタックを作ったのもこの頃だった。当時大好きだったミュージシャンのスタックを黙々と作り、Niftyの会議室で出会った仲間たちと合宿と称したオフ会に参加した際、披露した覚えがある。
marble history
「プログラム言語」という授業で初めてホームページを作る。テーマは何でもよかったので、フリッパーズギターのサイトを作ったものの、フロッピーディスクで提出するだけでネットで公開するには至らなかった。後日、自宅からインターネットができるようになり、課題で作ったサイトを公開した。世界中どこからでも見られる!ということに感動した。
この時、机の上に明治のマーブルチョコレートが転がっていたことからmarbleを名乗るようになった。のちに会社名になるとは思いもしなかった。
この頃は「NCSA Mosaic」というブラウザを使っていて、のちに「Netscape」に移行していく。新しいブラウザは、パソコン専門雑誌にCD-ROMの付録に収録されていたものを購入して入手していた。Yahoo!もGoogleもなく、「メール」という言葉も、まだ一般的ではなかった。
奨学金をもらい、バイトをいくつも掛け持ちしていた極貧の学生時代に、何を思ったかパソコンを買う。Macintosh Peforma575は14インチモニタ、メモリ16MBで当時27万円。送料すらもったいなくて、台車を借りて持ち帰った。ここからさらに貧乏になり、冬が越せるか危うくなる。
首から猫型のお財布をぶらさげて上京した私には、ブランド物のバッグにハイヒールの同級生がものすごくキラキラして見えた。友だちがいなくて、いつも大学のコンピュータ室にいてPCのセットアップを手伝ったりしていた。
パソコン通信「Nifty-serve」を始める。フリッパーズギターのホームパーティに入り浸ったり、スピッツのパティオを主宰して、テキストのみのコミュニケーションが日課になる。
大学の課題で、Hyper-Cardのスタックを作った。「小沢健二スタック」は我ながらヒドい出来で即封印された。
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