1996年 – 編集プロダクションでTeXを使った書籍編集を担当。UNIX、DTPなども学ぶ。

大学4年生。相変わらず奨学金だけでは生活できず、アルバイトに明け暮れる日々。下北沢の編集プロダクションで編集者として働きながら、TeXを使った組み版やDTPを学ぶ。同時に、個人的なウェブサイトの制作が加速する。「Yahoo!JAPAN」がサービス開始したのはこの頃だ。

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編集プロダクションで編集者としてアルバイト

下北沢にある小さな編集プロダクションでアルバイトの日々。大学卒業後は出版社か、もしくはウェブ制作か、悩みながらも、書籍編集の仕事に夢中だった。この編集プロダクションがちょっと変わった会社で、UNIXを使って書籍編集していた。さらに、用件はすべてメールというのが徹底して義務づけられていた。「その話はメールでしてくれ!―社内LANの愉快な毎日」という社員の方が書いた本が出版されていたほどで、たとえば社長が社内にいても口頭ではなく、必ずメールをした。

小田急線「百合ヶ丘」に住み、下北沢へと往復する車中では常にUNIXの分厚いテキストを読んでいた。当時はまだ珍しい「パソコン用語辞典」の編集を手がけ、初めて手がけた本の奥付に編集者として名前が掲載されたのがとてもうれしかった。

この書籍の打ち合わせのため、社長のシトロエン2CV チャールストンに乗せてもらうのも楽しかった。時々出版記念パーティーなどに連れていってもらうなど、新しい世界をたくさん見させてもらった。上京して間もなかった学生の私にはすべてが新鮮だった。

編集の他に、PageMakerやQuark Expressを使ったDTPも経験した。Quark Expressは、学生には買えないほど高価なDTPソフトで、それを使えるだけでうれしかった。「財務情報分析の基礎」という書籍では、複雑な数式が多く、ピンセットやスプレーのりを使って切り貼りした。

現在、この会社はどうなったのかと調べると、存続している!

この編集プロダクションで、素人の大学生に書籍編集をまるごと任せてくれた社長にとても感謝している。そして、WindowsやMacといったOSが一般化していく中で、UNIXに触れたことも後にとても役に立った。おかげでMacのユーティリティ「ターミナル」でコマンドを叩いたり、エディターで正規表現を使うことにも抵抗がなかった。

数式をのりで切り貼りした思い出。

marble history

1996
テレホーダイが待ち遠しかった

Nifty-Serveが待ちに待ったダイヤルアップPPP接続サービスを開始。自宅からインターネットができるようになった。電話代が高かったので、23時から翌朝までのテレホーダイタイムを待ってネットをやっていた。動画や音声はもちろん、画像ファイル1つ表示するにも時間がかかった。

1996
Performa575が相棒だった

大学4年生の夏休み、知人の紹介で渋谷にある(有)アバン から「東武グループ」ウェブサイトのHTMLコーディングの仕事を請け負い、Performa575でコーディングして夏が終わる。

打ち合わせで東武ワールドスクエアへ。

それと同時に、下北沢の編集プロダクションで書籍編集のバイトをしていた。

高価なPhotoshopなど買うこともできず、お絵かきソフト「キッドピクス」と「Graphic Converter」を使って画像を作っていた。どうしてもスキャナーが欲しくて、新宿で購入して満員電車で持ち帰った。

「はじめまして、ホームページ見ました」という見知らぬ人から初めてメールが届く。この日から、全国にメールをやりとりする仲間が増えていった。

1996
スピッツの所属事務所に直談判して撃沈する

個人サイト「marble」に日々思ったこと、感じたことを書きつづるようになる。これが後に「ブログ」と呼ばれるものになっていく。

スピッツのファンサイトを作り、全国64カ所のツアーレポートを募集。そのうち63カ所のレポートを編集、掲載する。大阪ラジオ局、FM802のスピッツレギュラー番組「MUSIC GUMBO」を大阪のスピッツファンからカセットテープで送ってもらい、毎週テープおこしをして内容を掲載していた。今思えば、なんというご苦労なことで…。

気合い十分でスピッツの所属事務所に「公式サイトを作りたいのですが」と電話をかけたら「インターネットってなんですか?」「よくわからなけど、スピッツの名前を勝手に使うことは今すぐに辞めてください」と、サイト閉鎖を求められ撃沈。

主な制作サイト

■「東武グループ」ウェブサイト(コーディング)

「東武グループ」ウェブサイト

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