授業をサボることも多かったが、多摩大学経営情報学部を無事卒業。高校生の頃からアパレル業界を希望していたが、気づけば時代の流れに乗ってインターネットの世界へと進んでいた。毎日終電で帰れればいい方で、会社に泊まって徹夜で仕事することも多かった。
モーリー・ロバートソン氏とメディアミックスの実験をする
現在、テレビでもご活躍のモーリー・ロバートソンさんが会社をよく出入りしていた。そのモーリーさんと複数のメディアを連動させたメディアミックスプロジェクトを開始。
- 【パソコン通信】「NIFTY-Serve」内フォーラムのシスオペ
- 【WEB】オンラインマガジン「び〜なす」連載
- 【RADIO】モーリーロバートソン氏のレギュラーラジオ番組「Across The View」
1997年当時、こうしたプロジェクトは斬新なものだった。モーリー・ロバートソン氏は、J-WAVEパーソナリティでレギュラー番組を持っていた。毎週金曜の深夜1時~3時という時間帯、リスナーはNIFTY内のフォーラムでチャットをしながらラジオを楽しんだ。また、ラジオ番組のテーマとオンラインマガジンの企画は連動していた。
それぞれのメディアが連動する企画は、今の時代珍しくはないが、当時はある種実験的な企画だった。
NIFTY内のモーリー・ロバートソンフォーラムで、私はシスオペを担当していた。ラジオの放送時間(深夜1〜3時)は、会社に泊まり込み確定で、フォーラムにログインし、スタンバイ。リスナーの書き込みやチャットを管理した。オンラインマガジン「び〜なす」では、ウェブサイトのデザイン、コーディングだけでなく、取材、執筆、撮影にも同行させてもらった。ある時は錦糸町にあるマンションの一室に赴き、SM女王様の体験記なども取材した。生放送中のラジオ収録スタジオにも潜入させてもらったり、多くの貴重な経験をした。
新日本製鉄(現日本製鉄)のウェブサイトを担当
新日本製鉄のウェブサイトリニューアル。長間に渡って、この仕事を担当させていただいた。
2019年4月、新日本製鉄と住友金属が統合して新日鉄住金となり、その後商号が日本製鉄となった。現在、私が住んでいる鹿嶋市には日本製鉄の製鉄所があり、当時叶わなかった工場見学もだいぶ後になってから実現した。そして、私が応援している鹿島アントラーズの経営権は長い間、日本製鉄が持っていた。2019年より経営権はメルカリが持っているが、第2位の主要株主として引き続き経営に関与している。
日本製鉄のウェブサイトと、製鉄所の町、鹿島アントラーズと、何かとご縁を感じている。
marble history
経営学も経済学も身に付かないままに大学卒業。大学に行かない日が多かったというのに卒業できたのは、ゼミの先生が「学校に来ない生徒ほど、よそで何か学んでいる」という理解のある人だったから。この先生は、記号論マーケティングを専門にしていたが、私はマーケティングについてはほぼ何も学ばず仕舞いだった。
卒論すら書いていない。ゼミの先生が「学校に来ない間、何をしていたか証明せよ」というので、日々家に籠もって作り続けたウェブサイト全ページをプリントして提出し、卒業させてもらった。
就職活動は、レコード会社と出版社、IT系企業を数社まわったものの玉砕。「人と同じ格好は嫌だ」とか言って、ホワイトジーンズで就職活動していたので当然の結果だった。
本の編集とインターネット、どちらもやりたかったが、結局アルバイトしていた(有)アバンのインターネットセクション契約社員になった。理由は「いつかスピッツのオフィシャルサイトを作りたい」というミーハーなものだったが、夢は叶わなかった。
会社の仕事は何をやっても楽しかった。新しいことを覚えるのも楽しかったし、上司に連れられて打ち合わせに出かけるのも楽しかった。ただ、作れば作るほど、自分が本当に作りサイトについて考えるようになった。もっと実績を作りたいと思うのと同時に、「いつかアランジアロンゾさんみたいなかわいいサイトが作りたい」と思っていた。
知人の紹介でアランジさんに初めてお会いしたのはこの年の冬だった。最初の打ち合わせで「インターネットってなんですか」「こわい」と率直なご意見を伺って、まずはモデムを購入するところからスタートした。この頃、アランジアロンゾさんとのやりとりは、FAXが多かった。
■「NIFTY-Serve」内フォーラムシスオペ、オンラインマガジン連載
■音楽事務所「FLOWER」と全所属アーティストのサイト
(板倉雅一 / 米村裕美 / 工藤健司 / 葛山信吾 / Bricks / オレンジズなど)
■新日本製鐵サイトリニューアルデザイン
■投資信託会社「フィデリティ」日本語版
英語版サイトのローカライズ、制作全般
スポンサーリンク