1994

大学2年生。パソコン通信時代、学校の課題で初めてウェブサイトを制作する。

1994

「プログラム言語」という授業で初めてホームページを作る。テーマは何でもよかったので、フリッパーズギターのサイトを作ったものの、フロッピーディスクで提出するだけでネットで公開するには至らなかった。後日、自宅からインターネットができるようになり、課題で作ったサイトを公開した。世界中どこからでも見られる!ということに感動した。

この時、机の上に明治のマーブルチョコレートが転がっていたことからmarbleを名乗るようになる。のちに会社名になるとは思いもしなかった。

この頃は「NCSA Mosaic」というブラウザを使っていて、のちに「Netscape」に移行していく。新しいブラウザは、パソコン専門雑誌にCD-ROMの付録に収録されていたものを購入して入手していた。Yahoo!もGoogleもなく、「メール」という言葉も、まだ一般的ではなかった。

1994

奨学金をもらい、バイトをいくつも掛け持ちしていた極貧の学生時代に、何を思ったかパソコンを買う。Macintosh Peforma575は14インチモニタ、メモリ16MBで当時27万円。送料すらもったいなくて、台車を借りて持ち帰った。ここからさらに貧乏になり、冬が越せるか危うくなるものの、「インターネットホームページデザイン」(翔泳社)という当時唯一のHTMLに関する本をボロボロになるまで読み、試し、技術を身につけていった。

首から猫型のお財布をぶらさげて上京した私には、ブランド物のバッグにハイヒールの同級生がものすごくキラキラして見えた。友だちがいなくて、いつも大学のコンピュータ室にいてPCのセットアップを手伝ったりしていた。

1994

パソコン通信「Nifty-serve」を始める。フリッパーズギターのホームパーティに入り浸ったり、スピッツのパティオを主宰して、文字だけのコミュニケーションが日課になる。

大学の課題で、Hyper-Cardのスタックを作った。「小沢健二スタック」は我ながらヒドい出来で即封印された。